それぞれの20年前・・・
2011年 04月 03日
震災から5日後のこと・・・。
私は京都の某所を歩いていました。
或る食堂の前を通り越して、何気にお隣の雑貨屋さんに入りますと、中は2軒のお店がつながっています。
連日、テレビから流れ出る震災被害の甚大さに、食欲も失せがちだったのですが、“おうどんくらいやったら食べられるかも・・・”と、そこで遅いお昼ご飯を食べることにしました。
雑貨屋さんの方にいはった女性が「ご飯は、隣の食堂からこっちに運んできますよ」と親切にゆってくれはりました。
でも、お手間をかけるのは申し訳ないので、
「いえ、向こうでいただきますよ」
そういいながら、私はお隣の食堂の方に移動したのですが、そこには大きなテレビが据え付けられており、そこからは、一刻一刻酷い状況になっていく福島原発のニュースが流れ出ていました。
「すみません。やっぱり、あっちで食べてもいいですか?」
“原発のニュースを観ながらご飯なんか、とても食べられへん・・・”
そして、私は、こちらの雑貨店でおうどんをいただくことに・・・。
たぬきうどんです。
京都と大阪では、「たぬきうどん」の定義が違います。
ほかの地方ではどうなんでしょう???
「昔、脱原発、っていう立場だったもので、原発のニュースを見るのは辛くて、ニュースを見ながらご飯なんか食べられないんです。すみません・・・」
わざわざ運んできてもらったことを、お店の方に詫びます。
すると、その女性はこう話してくれました。
「私も原発のニュースは胸が痛むんですよ。昔、関電(関西電力)に勤めていて、危ないのは知っていたのに「安全ですよ」ってお客さんにゆってたから・・・」と。
やっぱり、そうだったんですね。
20年前、「安全だ!」と言い張る電力会社の人に対して、“この人たちは、あんな危険なものを本気で安全だと思い込まされているのか、それとも危険なことはわかっているのにお金のために目をつむっている確信犯なのか、どちらなんだろう?”
私はずっと疑問に思っていました。
“やっぱり、危ないと知っていながら推進していたのか・・・”
20数年前、反・脱原発運動が盛んだった頃、真逆の立場に居た人と、20年の時を経て、こんな形で出会うとは・・・。
そして、20年後の今、どちらも原発の存在に胸を痛めているとは・・・皮肉なものだと思いながら、私はそのおうどんをいただいたのでした。
私は京都の某所を歩いていました。
或る食堂の前を通り越して、何気にお隣の雑貨屋さんに入りますと、中は2軒のお店がつながっています。
連日、テレビから流れ出る震災被害の甚大さに、食欲も失せがちだったのですが、“おうどんくらいやったら食べられるかも・・・”と、そこで遅いお昼ご飯を食べることにしました。
雑貨屋さんの方にいはった女性が「ご飯は、隣の食堂からこっちに運んできますよ」と親切にゆってくれはりました。
でも、お手間をかけるのは申し訳ないので、
「いえ、向こうでいただきますよ」
そういいながら、私はお隣の食堂の方に移動したのですが、そこには大きなテレビが据え付けられており、そこからは、一刻一刻酷い状況になっていく福島原発のニュースが流れ出ていました。
「すみません。やっぱり、あっちで食べてもいいですか?」
“原発のニュースを観ながらご飯なんか、とても食べられへん・・・”
そして、私は、こちらの雑貨店でおうどんをいただくことに・・・。
たぬきうどんです。
京都と大阪では、「たぬきうどん」の定義が違います。
ほかの地方ではどうなんでしょう???
「昔、脱原発、っていう立場だったもので、原発のニュースを見るのは辛くて、ニュースを見ながらご飯なんか食べられないんです。すみません・・・」
わざわざ運んできてもらったことを、お店の方に詫びます。
すると、その女性はこう話してくれました。
「私も原発のニュースは胸が痛むんですよ。昔、関電(関西電力)に勤めていて、危ないのは知っていたのに「安全ですよ」ってお客さんにゆってたから・・・」と。
やっぱり、そうだったんですね。
20年前、「安全だ!」と言い張る電力会社の人に対して、“この人たちは、あんな危険なものを本気で安全だと思い込まされているのか、それとも危険なことはわかっているのにお金のために目をつむっている確信犯なのか、どちらなんだろう?”
私はずっと疑問に思っていました。
“やっぱり、危ないと知っていながら推進していたのか・・・”
20数年前、反・脱原発運動が盛んだった頃、真逆の立場に居た人と、20年の時を経て、こんな形で出会うとは・・・。
そして、20年後の今、どちらも原発の存在に胸を痛めているとは・・・皮肉なものだと思いながら、私はそのおうどんをいただいたのでした。
by hanna1411
| 2011-04-03 01:11
| 詮無い想い